昭和五十一年一月十日 月例祭の御教話


 今、合楽の信心がどのような傾向にあるか、どのような方向に進んでおるか、と。
 日々、こうして信心の稽古をさせて頂いております者は、そうはっきりわからないのですけれども、たまたまこちらへ出て参りましたりしますと、それがはっきりわかる。
 先ほど、前講で正教さんがお話を致しておりました様に、学院から、休みで皆帰って来ております。そしてやはり、この雰囲気から感ずるものでございましょう。最近の合楽にはもう本当に信心を進めさせてもらう者、信心を頂かせてもらうと願う者が、今の合楽の信心にいわば便乗させて頂かなければ、またとこういう様な素晴らしい時期はあるまいという様なものを、彼は感じておるわけでございます。
 合楽にご縁を頂いておる者、本当にそういう信心の一つの勢いというか、そういう勢いに自らの信心もやはりそういう勢いをもって便乗させて頂かないと、結局遅れを取ることになります。それはとりもなおさず、今までの信心を土台として、より本当なことへ、より本当なものを求めて信心が躍進を続けておるということだと思うです。皆がより本当なおかげを頂きたいためには、とても本当な信心を一足飛びにはなかなかまいりませんけれども、それをいつもより本当なことを願わしてもらい、より本当なものを求めて信心させて頂いておらなければならん。
 真剣に求めておりますと、そこからこう与えられるもの、というものは素晴らしい。毎日、朝の御理解を午後三時半から四時まで、ここの修行生の方達が全部集まって、ここで研修を致します。今朝の御理解をいかにどう頂き止めておるかと、いうことを皆が発表し合うのです。本当にこういう素晴らしい事を、どうして早よう思い付かなかっただろうかと思う様に、朝の御理解をまた改めて、これ私自身も頂き直す機会を与えられる。もちろんめいめいも、本当にこれが今まで無駄になっておったわけではなかろうけれども、無駄になっておったのではなかろうかと思うくらいに新たなものを頂き、信心《の》研修をさして頂いております。
 ちょうど今、ここに十七名の先生方がおりますようです。修行生含めて、学院から帰って来ておりますから。<それを含んで十五名でしたか、>先生方が集まって信心の研修を致します。もう本当に朝の御理解を余すことなくそれぞれが、それぞれの信心の程度で受け止めておる。問題はそれをいよいよ自分のものにしていくという精進があるだけだ。わからずしてどこを目当てに精進してよいかわからない。やはり、まずはわからなければいけない。
 中で、私の一番下の息子ですけれども栄四郎がこういう様な発表を致しておりました。「僕は今日の御理解を習って途端に嬉しゅうなった」と、こう。これが開口一番でした。どういうことが嬉しゅうなったかというと、毎日親先生のお供をして、こう控えに出てくる。親先生がそこの戸を開けて天地を拝まれる。天皇陛下にお礼を申される。まあ、天地を拝まれるということまではわかるけれども、天皇陛下を柏手して拝まれるのが僕にはどうしても合点がいかなかった。まあ、親先生がするから一緒に真似しておっただけであったけれども、今朝の御理解を頂きよって、本当に天皇陛下は私ども日本人の命の恩人だ。本当になるほど拝まなければいけん、お礼を申し上げねばならんことがわかったら、途端に嬉しゅうなって信心に勢いが出てきたと言う発表をいたしておりました。それを言いながら今日の朝の御理解を自分が頂いておるところを発表しておりました。今日の御理解は雨が降るから、風が吹くからえらい、大儀とは思うてはならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。いかに有り難そうに心径や大祓を上げても真がなかったら神に嘘をいうも同然じゃ。必ず大きな柏手はいらん、大きな声を出すことはいらん節をつけたりして拝むことはいらん。ただ、人にものを言う通りに拝めという御理解でした。
 こうして頂いておりますと、本当に金光様の信心の拝み方というか、信心そのものが、見やすう感じるけれども、実をいうたらなかなか見やすい事はない。人にものを言う通りに拝んでそれが神様に聞き届けられるということにならなければ何もならんのです、ね。 人にもの言う通り、ただ心の中に思うただけでも、それを神様がいちいち受け返事をして下さる、受け取って下さるということにならなければ意味がないのですから。やはり、その中にあるところの、神様に嘘を言うようなものじゃと、いう様なことがいわゆる真心一心が必要であり、一心の真を貫かなければいけない。真でなからなければいけない。同時に雨が降るから、風が吹くからえらいとは思うてはならん。雨が降るから、風が吹くからということは、信心には言い訳はならんのだということでございます。
 「今日あなた、出かけよったら、もう雪の降り出したけんご無礼しました」と、明日来て、お参りして言う人があるかもしれんよね。そういうことは、おかげを頂くということにおいてはかわりません。けれどもね、それが身に徳を受ける修行者にはならんのです。身に徳を受ける修行、そこには言い訳がない。もうギリギリ結局どうにもでけないという時であっても、それはお詫びよりほかにはない。言い訳はできないという、ね。<近頃>私、何十年前の話を研修しながら話したことでしたけれども、それこそある時分たくさんお酒を頂いておりましたから、まあ年に一回ぐらいはもう頭がもうとにかくその、頭が上がらんてな時があったけれども、久保山先生が洗面器を持って二階に上がって見えられる。「ほら親先生、もう御祈念の時間ですよ」と言うてから、冷たいその洗面器に私の頭をこうやってその押さえてですね、つけて、「さあ目を覚ましなさい」というわけです。頭が痛い、というようにです。もう昨日は遅かったから、夕べは眠っていないからといったよなことは、【 】ことにはならないのだと。そこを私は押していく、そういうむつかしい内容、むつかしというのか、厳しい内容が信心にはいるんだということ、ね。しかもそれが一心の真があらなければいけんのだ。そういう姿勢がね、いるのだと。
 たまたま私が昨日、本部から送って来た金光青年という雑誌を毎月送って来る中に、ある先生が、信心のいうならば姿勢というものをです。天皇陛下が終戦、そしてマッカーサーご訪問になった時のご様子が、マッカーサーの書いておるものと、それから一緒に付いておる者、言った人の実際に見たり聞いたり、その場におった人達の話をまとめたものが載っておりました。
 天皇陛下が終戦ということも、いわゆる閣僚のいわゆる天皇陛下のいうならば取り巻きの方達がです、それこそ泣いておすがりしたそうです。日本国民がね、もう腹を決めております。もう全部が皆が戦死を覚悟しております。死を覚悟して、戦争は継続させて下さいと言うて頼んだ。それを天皇陛下がです、それこそ忍び難きを忍び、耐え難きを耐えてマッカーサーにお会いになった。マッカーサーがその天皇陛下と会って一番初めに、まあわかりませんけれどもね、「お煙草いかがですか」と言うて煙草を勧めた。そん時に天皇陛下のその手がガタガタと震えたということです。ねえ、こんな屈辱はなかったろうと思うですね。「どうですか煙草一本」と、こう言われるのですから、ね。そして段々、天皇陛下とのお話を承っておる間に、私の心がアメリカからこちらへ向かって来て近く計画しておったその全部が根底から引っくり返ったと、いうことです。始めの間は、例えばなら「久富さん」といった様な言い方をしておった、それが段々最後からはですね、半ばからは「陛下」と。その、自分の言葉が変わるほどに、この人はまあいうならばです、つい南方で日本と同じ様な状態になった国の責任者が亡命した、逃げた。または、自分は実際は責任はないんだと責任回避をする。ま、それが普通であるにもかかわらず、自分が命を落として、天皇陛下というのは戦犯の第一番に書いてあったそうですね。特に英国とソビエトは極刑に処するということを主張したそうです。その、たとえば、権利を持っておるマッカーサーがです。いわゆる、この人はもうそれこそ日本第一級の紳士であるということを、ま、感じたというのです。命をはめておいでられら。日本全国民が助かることならばです、ね、私はどうなってもよいと。そして、これは私の個人の財産の目録ですというてそれを差し出された。もう欲得、命をいわば捧げての懇願であった。最後にどうでも、日本八千人の国民が、食べ物だけは最低のところでもよいから確保してくれということを願われたということでございます。
 だからもちろん、あら人神といった見方ではないにいたしましてもです。本当に私共日本国民のやはり命の恩人として、お礼を申し上げるのは当然だということがわかったというのです。なるほど、親先生が毎朝、柏手して天皇陛下を拝まれるという意味がわかって嬉しゅうなったと、栄四郎は言っております。
 例えばです、神様の思いとか親の思いとかまたは首相の思いとか、先ほど正教君が言っておりました様に首相の思いというものがです、わかった時にそれと一緒に溶け込んだ時にね、それこそ勇気が出るのであり、感激が頂けるのです。例えば、耐え難きを耐え忍び難きを忍び抜かせて頂くところにです、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならない、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。だから、身に徳を受けることのために本気で一生懸命信心をしよう、修行もさして頂こうと思うて熱心に信心にも打ち込んだ、学院にもやらして頂いた。昨日もそのこと話して言ってました。けれども、今合楽にこの度帰って来て思うことは、皆さんの信心のどこが素晴らしく私をとらえたかと言うと、皆さんが無条件で信心修行に打ち込んでおられるという、それに触れたのだと。
 先日の新年パーティーの福引にも無条件という福引を引き当てた。いよいよもって無条件、お徳を頂くために信心するのじゃない、力を受けるためじゃない、なおさらおかげを頂くためではない。今年のいうならば寒修行が始まる、初日に頂きました様に、今まではお互いの信心がです、この寒修行に懸けなさい。大きな願いをそれぞれに持っておる、その願いを一つ願いに懸けて、この寒修行中にここだけ限っておかげを頂かにゃという様な願いを懸けて寒修行に力いっぱい信心修行さして頂きなさいといういき方から、今年の合楽の信心の焦点というのは一つ本気で無条件で神様の前へ大祓信行をさしてもらうその、いわば基礎になるところの姿勢を頂こうという、もちろんこれも条件は条件ですけども、大変な高度なところへの願いのもとにいうならば無条件の信心が修行が毎朝でけておる。または、日々お互いの家庭でそのことが大祓信行という名のもとに修行がでけておるということ。そういう一つの雰囲気がです、ね、正教君をして、かつて違った有り難いもの今こそ合楽で信心を、今合楽で言われておる信心を身につけておかなければということになってきておるのでございます。
 皆さんもほとんどの方が寒修行に通うてみえる方ばっかりだと思いますけれども、まだ寒修行の味がわからない方はそういう一つの願いというか、そういういうならば、これは金光様のご信心を頂いておる者、金光教の信心を、いや金光教の信者でございますという意味でね、ただ家にお祭してあるお神様が、ただお願いをいうたりお礼をいうたりするだけの、いわば神様ではなくて、これは金光教の信者である勤めとして日々の大祓信行を繰り返えさしてもらおう。朝晩、大祓十巻なら十巻を御神前に、しかも家族勢を揃えて、しかも時間を決めて。これはもう金光様の信者としての当然の勤めとしていわゆる無条件にです、願わんなんから頼まんならんから大祓信行するというのではなくて、もう金光様のご信者としての勤めとしてこれだけは実行していこうじゃないか、今年は合楽にご縁を頂いておるそれこそ端々隅々の信者にいたるまでこのことの徹底をきしていくことのために今年の信心の焦点を置いておるというのは、この元旦祭の時に私が皆さんに聞いて頂いたとおりであります。そういうことがなされておるということがです、とりもなおさず本当の信心にいよいよ向きが変えられたということになるのです。
 金光様の信者として、もう当然のこととしてです。私共もままにならなければならない、ならばです神様にもままになってもらわなければならない。私共にも活力素がいるように神様にも活力素を、神様が自由にお働きできられるための信心がなされなければいけない。それは毎朝、御神飯をお供えする様に無条件の真心、一心の真心いうならば大祓信行そういう意味でも大変な意味のあることでございます。
 一心不乱に生神金光大神を唱える、一心不乱に大祓を奏上さしてもらう、そこにはいうならば欲も徳も何もない。ただ、無心に大祓を奏上さしてもらう、ね。その大祓がそのまま神様の活力素になるならばです、こりゃ金光様のご信者として当然そういう修行に本気で取り組まなければいけないということを感じます。
 そしてその内容としてです、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃという、そういう辛抱をさせて頂き抜かせて頂くところに期せずしてお徳というものは頂けるものだ、おかげは頂けるものだということがわかります。同時になら、お願いをしてならないとか、そういう神様ではない。お取次ぎを頂く時にはやはり様々な願いもしさしてもらわなきゃならん。またはそういう大祓、神様にままになってもらう神様喜んで下さっておるだろうと、神様が心を開いて下さった、喜んで下さっておるだろうという心の状態の中に、それこそありがとうして、ありがとうして御神前を離れにくいごたる心もちがでけてきたところで私共の願いである、いうならば五つの願いなら五つの願いがなされなければならん。
 無条件ということはです、それこそ私どもの真心、ということはそういう心を真心だと私は思います。神様がままになって下さるほどしの心を真心という。無条件に神様にうち向かうというそのことが真心で神様にうち向かうということになる。そこから、五つの願いなら五つの願いがなされる。それとてもどうぞ健康の上にも、家庭円満の上にもね、子孫繁盛家繁盛のことも、ただただその願いの根本にあるものはです、神様に喜んで頂く御用ができることのために健康も頂きたい、家庭の円満も頂きたい、一切人間の幸せの条件のもとになる一切のものを頂きたい。それは神様のお喜び頂けるいうならば、世界に布教する、金光教。本当に世界がいくらでも潤い、明るくなるためにそういうおかげを頂かなければ明るくはならない。まず、自分の心に光を受けなければならない。そういう信心修行が今、合楽のいわば傾向であります。そういう方向を目指して、皆が信心をすすめておるのでございます。だから、それに漏れることなくお互いの信心をすすめていかなければなりません。そこから、今までかつて味おうたことのない信心の喜びにまた触れられることでしょう。
 今日の研修をここでいたします時、皆の発表を一人一人聞かせて頂きながら、まあ申しましたことでございましたが本当にもう見事に今日の御理解をめいめいの信心でそれをキャッチしておる。受け止めておる。それを発表しておる。もうこんなに私は、今日申しました。朝の私のお話がこのように見事に捉えられておるということを思うただけでも、朝一生懸命にお話さして頂く、いうならば甲斐を感ずる。本当にありがたい、嬉しいことだ、これがいよいよわかっただけではなくて、皆さんの信心のいうなら血に肉になっていく修行をさして頂かなければならない、そういう私はことを申しまして、すぐ四時の御祈念ですから御祈念入らして頂きました。
 そして、神様にそのことを申させて頂いておりましたらね、今あの高級野菜、野菜屋さんに、あれは大根でしょうかね、大根の芽ですか、小さい針の様なお野菜が今市場に出てるでしょう。それ昨日お供え頂くんです。なんか、生でも食べられる。おすましなんかに入れられる。大根の芽が針の様な上に【 】付いている。下に根がこう付いている。あれをね、こう引っこ抜いてるけれども下がそのジュルジュルした泥の様な水気のある泥ですから、それが根に、こう【 】付いてるんです。だからこれを取いよると、もうあの市場なんかには出せない感じなんです。もう仕方がないから上だけ摘んでから市場にゃ出されんから、だから家で頂かにゃ<しようがない>といった様な、摘んで頂かにゃ仕方がないといった様な状態を頂いた。結局、泥といいその、水気のある泥ということは結局、本当におかげの中にです、いうならば今合楽で十七名の方達が修行をしておりますが、もう第一、衣食住ということ、いうならば生活というものは考えなくてすむわけです。ただその事だけに専念すればいいのです。朝の御理解ならその朝の御理解を頂いて、もうその事だけに専念する。ああ、今日は本当にいくらあそこに払わねばならんとか、あすこにどう、という様なものを全然考えんでもその信心のそのことだけに打ち込めばよいのです。
 そういうその、まあ結構な雰囲気の中に信心の稽古をさせて頂いておる。いうならばこの泥が水やら泥やらで、【 】とても洗われないわけなんです、ね。根に付いとるから。だから仕方がないから上だけ摘み【 】。そりゃしかし、自家用だけ、よそにね【 】。市場に出すというのは商品にはならないという意味なんです。なら、今の修行生の方達が朝の御理解をわかって来るほどに、素晴らしくわかったけれどもそれがまあだ商品にはならないということ。自分がただ頂きよるだけだということ。そこでです、そこで私はならこれは修行生の方に神様が教えて下さったことだろうと思うんですけれども、お互いがねそういうおかげの中に皆さんあるわけです。
 本当にお徳を受ける道、とでも申しましょうか、かくすれば力が受けられるというような信心を頂いてありがたい、勿体ないということだけを自分に感じられるけれどもそれがまあだ、その本当に合楽示現活動なら示現活動に役に立つというところまでにはほど遠いのだということです。
 ですから、そこでです。なら、そのお恵みをね、泥とかその水気というか少し外さなければいけないということになるのです。いうならば今の合楽の修行しておる方達がです、ただ毎日、毎日勿体ないありがたいという満腹するような教えを頂いておるというだけではなくてです、そういうおかげの中にあるということをわからしてもろうて、それがまあだ本当のいうならば商品価値ではないとわからして頂いたらです、そこから自分の身を削り、心を削りする修行が必要だということになりますですね。
 与えられたからというて、なら腹一杯ご飯を食べると、まあ例えていうならばですよ、腹一杯【 】、食べたいのは食べるといった様なことではなくてです。例えば三杯のご飯なら二杯にしてからでも、五時間休むところは四時間にしてからでも今の教えに取り組まなければならないということを改めて教えて頂いた様な気が致しました。
 だから真の信心に向きを、変えております。また、真の信心のいうならば段階にはあるのです。一段一段昇っていけばよいのです。だからその、そこの頂きどころがです、なら私自身としてもです。私自身、皆さん自身としましてもです。ただいわば、楽に頂こうといった様なことではなくてです。それこそ、身を削り心を削りして、改まるうえにも改まってそのことを頂いていかなければならない、でなからければ商品価値は出ないということでございます。そこのへんのとことを今日は一つわかって頂きたいと思います。どうぞ。